たまに思い出すことがある。

 

無意味に明るい部屋。

 

薄暗いビーカーの中。

 

鼻を突く消毒液の臭い。

 

緑に光る生命培養液。

 

裸の自分。

 

空虚な意識。

 

暗い常闇。

 

無機質な壁。

 

不潔な診療台。

 

銀のメス。

 

白衣のヒトビト。

 

虚ろな瞳。

 

不規則な振幅。

 

耳障りな機械音。

 

不似合いなチューブ。

 

濃い酸素。

 

ハダカノ、ジブン――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰もいない港に、ジュノン製の「ハイウィンド」と呼ばれる高速船は、まばゆい朝日を背 に、出航のときを待っていた。

 

静かに打ち寄せる波が時折船の底版を打ち、ちゃぷちゃぷと心地よい音を奏でては、引いて いった。その波に乗ってゆっくりと上下する船体には、オートクルー機能が搭載されてあり、たとえ乗り手がいなくてもどんな荒波にも負けず、目的地へと着く ことができる。

 

そのせいだろうか。今にもこの船が繋ぎ止められているロープを引きちぎって、エンジンを フル回転させ、水平線の彼方へと消えていってしまいそうなのは。

 

しかしそのプログラムを起動させる人間がいなければ、例えどんなに優れた機能を持ってい ても、それは単なるコレクションの一部になってしまうのも事実だ。

 

つまるところ、全てのものには利害関係があり、互いの弱点を補いあって初めてその真価を 知ることができるのである。

 

 

それは古代の人々にも言えるのではないだろうか。

 

母なる星は、一見何か物静で温厚な、紳士淑女のようにも見える。

しかし、その底部には底知れない力を秘めて、一度(ひとたび)逆鱗に触れれば、もう人間 にはなだめる事も、償うこともできなくなってしまう。

 

母なる星は数多の生命をその身に宿している。人もその数えきることのできない生命の一つ に過ぎない。しかし、確かに人こそ、この星に存在する生物の中で、最も優れている種である事も確かだ。

 

だからこそ星は彼らを選んだのかもしれない。

自らの力を総べる、腕として。

 

星が力を与え、人々がこれを使う。人々は星に守られ、そして星を育む。

これこそ当初の当然あるべき姿だったのだ。星と人との―――。

 

だが、それはあくまで理想論に過ぎない。現在の状況に満足せず、他の者より秀でることを 望み、さらなる高みを目指す。これが、唯一優れてしまった人間という種の、もはや避けることのできない現状と言えるのではないだろうか。

 

結局、星が求めた意志力は、その身に危害を及ぼす狂剣と成り果てた。

 

自らの力を用いて、自らを滅ぼす、そんな矛盾が世界の何処にあるのだろう。しかし、確か にここにあるのだ。

 

人々は比喩的な意味で盲目だった。目先のことしか考えることはできないのだから。力を得 たところでもう使うことはできないだなどと誰が考えただろう。

 

 

 

 

そしてその目先の進化の果てに、人々が星からの守護を享受する術を無くした事は、当然と は言え、どこか心虚しさを感じざるを得ない――――――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「青い空、青い海、ああ、心が晴れるよう・・・・・・」

 

日も高く上った頃、薄灰の船「ハイウィンド」はジュノン、南の沿岸を悠々と航海中だっ た。

ミッションは既にオートクルージングへと書き換えられ、出航から数分たった今ではコン ピューターの綿密な計算の元、温まったエンジンが最高速度を出さんと呻りを上げていた。

 

 

涼やかな風が吹き抜けるデッキには出航直後からティファがオリジナル・カクテルを片手に 陣取っており、先程から一人日光浴を楽しんでいる。まだ五月だというのにいささか強すぎる日差しが玉に傷・・・・・・といったところだろうか。

 

「いいわねェー。セフィロスなんていなかったら今頃私はザックスと仲良くコスタ・デル・ ソルに居たのかしら・・・・・・」

 

こんな風に一人で開放的な気分を味わうのもいいけれど、どちらかと言えば、カップルにぎ わう南国のビーチでダイビングやマリンスポーツに興じたい。

 

どこまでも青い空も、この船が南国のビーチではなく陰気臭い神殿なんかに向かっていると 思うと、どことなく虚しく感じてくる。

 

彼女は手にしたグラスの中身を一気にあおると、この無駄とも思えるほどの太陽エネルギー を有効利用するべくサンオイルを手に取った。

 

「今年は小麦の肌を目指そうかな・・・・・・」

 

 

 

 

 

 

 

「気持ち悪いよゥ・・・・・・」

 

ホテルの一室とも見紛うばかりの部屋。そのベッドでエアリスは船酔いに苦しまされてい た。

 

船に乗ったのは初めてと、そう喜んでいたのも最初の数分だけだった。次第に波を滑るよう に揺れる船体が恐くなり、部屋に閉じこもっている間にとうとう船酔いにも犯されたのだった。

 

「『ハイウィンド』は船体の揺れを最小限に留めている構造になっている筈なんだけど な・・・。殆ど、揺れてなんかいないと思うんだが・・・・・」

 

「揺れてるのォ・・・・・・!」

 

私の苦しみなんか分かりはしないのよ、とでも言いたげなエアリスが、自分とは対照的に涼 しい顔をしているクラウドを心なしか睨んだ。

 

地面に足をつけてかれこれ19年、筋金入りのゴーレムは空も水も苦手らしい。

 

「水でも飲むか?」

 

クラウドの提案にもエアリスは弱弱しく首を振っただけ、天性のお転婆娘がここまで静かに しているというのも何だか可笑しい話だ。しかし彼女のその苦しそうな表情を見ていると、面白いとかいう、そんな気持ちも萎えてしまう。

 

「まいったな。俺たちは平気だから、船酔いに効く薬なんて持ってきていないんだよ」

 

「そんなァ・・・・・・」

 

もうダメだ・・・とでも言いたげなエアリスの背中をクラウドはそっと擦った。

 

手が掛かるのは相変わらずだった。それはいきなり変わられたら逆に気持ち悪いというもの だが、昨日は必死に大人ぶろうとしていたエアリスがクラウドの脳裏に焼きついているせいで、そのギャップがことさら可笑しく感じる。

 

しかし、それでもエアリスに頼られるのは嫌いじゃなかった。こうしていると自分が必要と されているのだ、という確証を得ることができる。このような状況にあるときでさえ、自分たちはただの恋人同士なのだと、そう思うことができる。

 

それにエアリスが自分に頼ってくれると言うことは、エアリスは自分を信頼してくれている ということでもある。ずっとこうして寄り添っていられれば、こんな不確かな関係も、いつかはしっかりとした土台の堅固な物になるような気がしていた。

 

「すこしぐらい、眠るといい。起きたら体が揺れに慣れているさ」

 

クラウド自身、昔は筋金入りの乗り物酔いだった。いや、今でも改善されているとは言い難 いが、それでも昔よりは幾分良くなった。

その彼が近年研究したことによると、「乗り物に酔う前に寝る」というのが最も低コストで 尚且つ効果的だということに気づいた。

 

つまるところ、酔うことを忘れれば何とかなるのである。

 

「寝るまでが大変よ・・・・・・」

 

確かにこんな気分で寝ろ、というほうが間違っている気もするが、残念だが今は寝て待って もらうしかほか無い。

 

「じゃあ、水ここに置いておくからな。なにかあったら呼べよ」

 

「一緒にいてくれないの?」

 

「・・・さっさと寝ろ」

 

クラウドは溜息一つ付くと部屋を後にした。

 

 

 

 

 

 

 

「おー!すげーな、さすがハイウィンド!」

 

メインコンピューターの設計を見てザックスが感嘆の声を漏らした。

 

「ハイウィンド」とはもともと「エクスカリバー」という強襲高速戦艦をスペックにして造 られた、時期主力戦艦全般のことをさす。

 

「ハイウィンド」は開戦当初から主力艦として造られてきただけに、その種類も豊富で、デ ザインの変更をしたものも含めれば、その数は実に56種類にも及ぶ。

いうまでもなく、最新型「ハイウィンド」にはこれまでの経歴に恥じないような、そして特 徴的とも言える、いささか行き過ぎた装備が施されている。

 

 

特筆すべきなのは、『対半減効果防御壁プラウドクラッド』←笑 と呼ばれる、特殊防御装 甲だろう。

 

このややシンプルな装甲は、当時の戦局を覆した立役者だった。

 

絶対無比の防御力。

ある程度の攻撃ではその装甲に傷一つ付かない。

 

敵兵はプラウドクラッド装甲の戦艦を見ると恐れおののいて、手も足も出なかったという。

 

 

「ったく、すげえ技術力しているよ。神羅ってのもさ。確かに世界中を牛耳っていただけの ことはあるぜ」

 

それにしても神羅はこんなものを会社に隠し持っていたのだろうか。実際に使われる日が着 たかどうかは定かではないが、防御専門の『プラウドクラッド』も外交的には攻め専門だったらしい。

 

確かに『プラウドクラッド』を使われたら、他の国に勝ち目など無い。なんと素晴らしい盾 だろう。

 

 

 

ザックスは徐にコンパートをスライドさせて、キーボードを駆りだした。

 

ハッキングは慣れているからだろうか、初めて見るとは思えない手際の良さで、『プラウド クラッド』の出力データを次々とパネルに打ち出していく。

 

 

『プラウドクラッド』とは一種の粒子シールドで、莫大なエネルギーを消費する。ある物体 が超電磁空間認識システム(ソナー)の認知領域に侵入すると、互いに反発しあう性質を持つ微粒子が一瞬にして装甲を覆い、物体と装甲が接触した途端、装甲 を覆う微粒子が強力なバリアとなって、物体の威力を相殺する仕組みだ。

 

無敵とも思える装甲だが、やはり一番懸念すべきなのはエネルギーの浪費であり、エンジン と共用のタンクを使わせると走行に障害を与える可能性もある。

 

従って、『プラウドクラッド』専用のエネルギータンクが存在し、必要なエネルギーは全て そこからまかなうのだ。しかし、それでも常時使用は出来ない。

 

そのため『プラウドクラッド』は攻撃が開始されて初めて、手動で展開するしかないのであ る。半ばでガス欠になりたいのなら話は別だが・・・・・・。

 

 

 

「・・・・・・にしても、体が重いな・・・・・・最近車の中に箱詰めされてたからか なぁ」

 

ザックスはおもむろに大きく伸びをした。あらぬ所の関節がぼきぼきと嫌な音を出し、ザッ クスは顔をしかめた。

 

これはいけない。少しぐらいは運動もしなければ。

 

「そういや、クラウドはエアリスにつきっきりだったけど、もう大丈夫だよな。看板に出れ ばちょっとぐらい模擬試合できるかもなっ!」

 

そう思うと、戦闘反射なのか、体中に刻み込まれた戦いの刻印がいっせいに疼き始めた。ア ドレナリンが体内を駆け巡り、やおらぞくぞくとした快感まで感じるようになった。

 

「へへ、やっぱ俺って暴れん坊将軍?」

 

そうかもしれないがクラウドにとってはいい迷惑である。

 

案の定、クラウドは『何それ』と顔をしかめ、あからさまに嫌な顔をした。

が、しかしお互い負けず嫌いのためか、少し挑発してやると、面白いぐらい乗ってくる。

 

「へん!負けてびーびー泣くんじゃねーぞ!!」

 

「ふん・・・・・・言ってろ」

 

 

 

―――かくして、クラウドとザックスによるはた迷惑な模擬試合は始まったのである。

 

 

今回、この後に控えるであろう出来事を予想して、二人とも一切飛び道具、及び刃物の類は 所持していない。

 

つまり、拳の一本勝負。

 

ゆっくりと、二人が相手に向き直った。

 

ザックスが片手をズボンに突っ込んでいた体勢から、素早く構えを取る。

 

クラウドはそんな事は一切しない。ただ、その瞳から光が消えたようだった。

 

これは、哀れなクラウドの戦闘反射だった。

 

まず手始めに・・・・・・と、ザックスは常人には思いもつかぬスピードでクラウドに打拳 を繰り出した。

クラウドはそれを焦る事無くあるものは避け、あるものは受け止め、捌く。

 

次いで鋭く顔面を捉えようとする回し蹴りを、首を僅かに捻らせ、やおら半歩下がってやり 過ごす。

 

目標を捕らえる事無く地面へ着地しようとする足を、クラウドは見逃す事無く手の平で引っ ぺがす様に叩いた。

 

ザックスはひっくり返らんばかりの体を宙で反転させると、まるで四本足で立つかのように うつ伏せに着地した。同時にクラウドに目にも留まらぬような速さで、足払いをかける。この間はまるで一つの動きであるかのようにスムーズだった。

 

 

が、しかしクラウドは反り返るようにその場で一回転することによって、これを避けた。

 

 

二人は弾かれたようにお互いから距離をとる。

暫くお互いの動きを見たかと思うと、同時に床を蹴り再び組み合い、そして離れる。わずか 数秒の間に何十もの動作が続けて行われていることを、一体誰が見切ることが出来よう?

 

そして、それが出来るのも当の二人か、または反対側のデッキでのんびりと日に焼けている ティファぐらいのものだろう。

 

 

―――クラウドは壁を蹴ることもせず、直上にジャンプした。

人間とは思えないほどの跳躍力にザックスは瞬間唖然とする。

 

―――軽く10メートルは飛んだのではないか・・・・・・?

 

 

しかしザックスもすぐさまテラスに足を駆け、後を追うかのようにジャンプする。

 

高高度に達した所で、クラウドはザックスの胸ぐらを抉るかのような回し蹴りを船体の端部 を蹴る反動で繰り出した。それはザックスの胸元をかする。が、体を捻った勢いで再び繰り出された、もう片方の足から来る蹴りがザックスの右の頬を捉えた。

 

 

間髪いれず、クラウドはザックスの襟首を掴んでこちら側に引き寄せた。

 

その肩から首にかけて自分の左足で絡ませるように捕らえ、絡ませた足によって上に突き出 たような格好になった、その左腕をしっかりと両手で抱える。

 

そのままザックスの頭を下に向けたような格好でクラウドは落下し始めた。

 

―――頭を看板に叩きつけるつもりなのだ。

 

 

 

しかしザックスも負けてはいない。

 

看板に衝突する瞬間にクラウドの腕を捻って、自分の背中の上を転がすようにクラウドを離 させると、右手で無防備になったクラウドの首根っこを掴んでその左腕を固定した。

 

 

「・・・・・・ちっ!」

 

 

このまま二人そろって看板に叩きつけられるのはクラウドにとって分が悪い。

腕力、更には頑丈さにおいては、体格の良いザックスのほうに分があるのだ。

 

 

そのまま二人は変にもつれた格好のままで鈍い音と共に看板に叩きつけられた。

 

案の定、(寸分違わなかったが)先に起き上がったのはザックスだった。

ザックスがこの短き戦いに終止符を打とうとクラウドの首をめがけて手刀を振り落す。

 

が、遅かったとは言え、ほぼ同時に起き上がったクラウドにその攻撃が当たることは無く、 クラウドは転がるように体を捻ってそれを避けた。

 

 

だが、次に繰り出されたザックスの手刀がそれを捕らえる。

 

クラウドが弾かれたように横に飛んだ。

 

それをザックスが追う。

 

決まったと思っていた手刀も、あまりクラウドには効果が無い様だった。

 

 

クラウドが軽く船体を蹴る―――。

 

クラウドは図ったように飛んでいるザックスの下に滑り込んだ。

 

「ちぃ!」

 

ザックスが軽く舌打ちをする。気づいたときにはとき既に遅く、ザックスはクラウドの真下 からの蹴り上げをもろに喰らった。

 

「ぐ・・・・・!」

 

蹴り上げられたザックスの体が宙を舞う。

 

次の瞬間、落ちてきたザックスの腹を、クラウドは船体に向けて思い切り蹴飛ばした。

 

がん、と鈍い音を立てて船体がきしむ。

 

凄まじい威力の蹴りはザックスの体を暫く船体に張り付かせたままだった。

やおら、ずるっと体が滑り落ちる。

 

「ちぇッ!クラウド、お前また強くなりやがったな!!」

 

ザックスが血反吐をぺっと吐き捨てながらクラウドを見上げた。

その言葉をクラウドは鼻でせせら笑う。

 

「ふん、嬉しくもないね」

 

ばかげた質問だとでも言いたげな口調でクラウドは言う。

その声には冗談も、あしらうような印象も無く、唯冷たい、言いたくも無いことを認めざる を得ないような―――そんな感じだった。

 

ザックスがそれを聞いて苦笑する。

 

クラウドは可哀想な奴だ。

 

 

 

「俺は強くなるようにできているんだ」

 

クラウドは平然と言い放った。それがさも、当然であるかのように。

 

真っ直ぐな事実だけを述べて―――。

 

「もう、痛くないのか?」

 

ザックスがクラウドを追いながら聞いた。

 

「まあな」

 

クラウドが光の宿らない瞳で言う。彼はいつもこうだ。

 

「化け物だから」

 

 

瞳は相変わらず、真っ直ぐだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

たまに、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出す・・・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

軋む様な

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの痛み

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クラウドは汗ばんだ体を冷やすために、いつもより冷たいシャワーを浴びた。

自分もあそこまで動いたのは久しぶりかもしれない。実際稼業から離れて随分と時間が経 つ。生身の人間を本気で相手にしたのも、何ヶ月ぶりだろう・・・・・・?

 

しかし体はなまってはいなかった。

 

それどころか更に動きが俊敏になったような気がする。反射速度が抜群に速くなった。

 

タイルの壁に手をつく。

 

このまま力をこめれば容易く毀れてしまいそうだ。

 

壁が、果てしなく脆く見える・・・・・・。

 

「お前、また強くなったな」

 

親友のはずの男の言葉が嫌に耳に響く。

 

うるさい

うるさい

うるさい

うるさい

うるさい

 

ウルサイ

 

 

 

こういう時、誰も彼もが煩く思える。

 

ほっといてくれ。

 

何もかもから。

 

 

クラウドは徐に自らの肩に爪を深く食い込ませた。

 

ぶつっと音がして、傷口から真っ赤な血が流れ出し始める。

 

湯が染み入り、激しい苦痛を催すが、クラウドは少しも表情を変えなかった。

 

うっとする鉄分の臭い。

 

人の血は赤い―――。

 

自分の血は赤い・・・・・・。

 

 

「ほっといてくれ・・・・・・」

 

クラウドは畝だれて呟いた―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―――クラウドが部屋に戻るとエアリスはまだ気持ちよさそうに眠っていた。

 

この分だと、もう酔いの心配も無さそうだ。

 

「・・・・・・ん・・・・・・」

 

クラウドが帰ってきたことを察知したのか、エアリスが寝ぼけた眼を擦って起き出した。

 

そのまま隣の机に置いてあった水をあおる。心地よさそうに伸びをすると、彼女の亜麻色の 髪がさらさらと肩をこぼれた。

 

「クラウド、帰ってきたの」

 

「ん・・・・・・ああ」

 

まだベッドから出ないエアリスの元へと、クラウドは足を運ぶ。

 

「もう、大丈夫なのか?」

 

「うん、私って順応性良いみたい」

 

「よく言うぜ・・・・・・」

 

先ほどまで潤んだ瞳をしていたとは思えないほど、エアリスは気分が良さそうだった。この 変わりようは一種の爽快ささえ感じさせる。

 

 

エアリスはベッドから抜け出すと、艶々した髪をリボンで一まとめにした。

そのままクラウドには目もくれず部屋を出て行った。

 

「エアリス・・・・・・?」

 

クラウドは何が何だか分からない、とでも言いたげな表情を取った。

が、しかし時計を見やればもう六時が過ぎているではないか。

ティファはまだデッキでごろごろしているようだったし、彼女のほかに(まともな)料理が 作れるのは彼女しかいないのを考えると、エアリスは大急ぎで夕食の準備に取り掛かったのだろう。

 

 

クラウドは先ほどまで彼女が占領していたベッドに身を投げ出した。

ベッドはスプリングの柔らかい高級のベッドだった。クイーンサイズで、二つ置かれたクッ ションは大きくふかふかだった。

 

疲れた体には嬉しい限りだった。クラウドは寝るところは気にしないタイプの男だが、それ でも心地よいベッドで寝られることには越したことは無い。

 

クッションに顔を埋めると、ふんわりと甘い、彼女の体臭の香りがした。

 

なんだかとても眠くなって、クラウドは数週間ぶりに、心地よい眠りの世界へと引き込まれ ていった。

 

 

 

「あら、エアリス」

 

「ティファ!まあ・・・・・・焼けたわね」

 

エアリスは食堂への廊下を急ぐ途中でデッキから上がってきたばかりのティファと会った。 朝見たときは白かった肌が、こんがりと小麦色に焼けている。

彼女らしく、ワイルド・・・・・・とでも言うのだろか?

 

「ええ、それよりもうご飯作るの?手伝うわ」

 

「いいのよ。今日は私が作るから、ティファはゆっくり休んでいて頂戴?」

 

「でも悪いわ」

 

「たまには、役に立たせてよ!」

 

エアリスは半ばティファを押し出すように自室へと向かわせる。

 

昨日、ホテルのロビーで自分のことを心配してずっと待っていてくれたティファに、これ以 上気を使わせたくなかった。

料理ぐらいなら、手伝ってもらわなくとも自分一人で何とかなる。

 

このメンバーの中で唯一自分だけで出来るものはそれだけだった。

 

「ああ、エアリス」

 

ティファが廊下を曲がる手前でエアリスに呼びかけた。

 

「手伝うことがあったらなんでも言ってね、すぐに行くわ。ほら、ダイニングの壁にある電 話。あれ、全部の部屋と繋がってるから」

 

「うん、ありがとう」

 

エアリスは心底嬉しそうにいった。

 

「あと、ザックスはニンジン嫌いだから、たっぷり入れといてあげてね」

 

エアリスは苦笑いしながらティファを見送った。

まったく、あのカップルは仲がいいんだか悪いんだか分からない。

いや、その表現は間違っているだろう。少なくとも、二人は仲がいい。とっても。

 

ただ、そう。いたずら心が勝っているだけなのだ。

 

それにお節介な所も似ているし。

 

 

 

―――エアリスはキッチンの窓から外を覗いた。

青い海と、同じぐらい青い空が広がっているだけで、ちっとも楽しくない。

 

出航してから何時間経ったのか知らないが、それでもかなり遠くまで来たのだろう。水平線 の先までも、唯青かった。

 

 

することない、つまらない、やることは寝ることと料理することだけ。

 

外は蒸しかえるように暑くてすぐに嫌になってしまうし、クラウドの家で刺繍しかけだった ハンカチも置いてきてしまった。

 

あれももう、放射能とやらで使い物にならなくなってしまっているだろう。

 

ほう、とエアリスは溜息を付いた。

 

そういえば何で神殿なんかに向かっているんだろう。

セフィロスは追わなくていいのだろうか?

 

エアリスは暫く考える。

 

ああ、と手を打つ。

 

 

確かセフィロスが「南へ」と言っていたんだっけ。

 

だから向かっているの?

 

本当に、それだけ?

 

言ったから向かっているの・・・・・・?

 

それとも・・・・・・・罠・・・・・・・?

 

エアリスの脳裏に以前見た老人の夢が思い出された。

 

または、運命・・・・・・・?

 

 

エアリスはもう一度窓から南の方向を眺めた。

 

 

 

何だか水平線の向こう側から誘われているように思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねえ、クラウド。何日間ぐらいで南の神殿に着くの?」

 

夕食が終わり、全員が部屋に戻った頃エアリスはクラウドにそう問うた。

 

「早くて一週間、遅くて十日ぐらいだろ」

 

「そんなにかかるの?やだなぁ・・・・・・」

 

エアリスはベッドに顔を埋めてぶーたれた。

 

まだ、船に乗ってから一日も経っていない。なのに、エアリスは変わらない風景にもう飽き てしまった。

 

これが十日も続くなんて、信じられない。

 

「寝てれば、あっという間さ」

 

「そう言う問題じゃないわ、唯、そう飽きたの。船の中は何にも無いし、外に出たら暑い し・・・・・・。何より泳げないじゃない」

 

「あんたは元から泳げないだろ」

 

「そう言う問題じゃないのよ」

 

エアリスはするするとベッドに腰掛けているクラウドの隣に移動した。

 

不安げにクラウドを見やると、クラウドはどうしたんだとエアリスの頭をポンポンと叩い た。

 

「恐いのか・・・・・・?」

 

「そんな・・・・・・恐くはないわ。まだ・・・・・・。唯、なにかありそうな気がする の。その神殿に」

 

伏せ目がちに言うエアリスに、クラウドは顔をしかめた。

 

「星からの声?」

 

しかし、エアリスは頭(かぶり)を振る。

 

「分からないわ。もしかしたらそうかもしれないし、違うかもしれない。本当に何とな く・・・・・・。今まで気にしていなかったんだけど、急に・・・・・・ね・・・・・・」

 

「急に・・・・・・・?」

 

「そう急に。本当に、なんとなく、今そう思っただけ」

 

クラウドは訳が分からないと肩をすくめる仕草をした。

 

 

流れるような沈黙の後エアリスが口を開く。

 

「何で行くの?セフィロスが待っているかもよ?」

 

クラウドが読んでいた本から顔を上げた。

 

「別に・・・・・・。あいつ、ほっておく訳にはいかないだろ」

 

「本当にそれだけ・・・・・・?・・・・・・もしかしたら待ち伏せされているかもよ、危 険を犯してまで会いに行く理由は他にもあるんでしょ?」

 

「会いに行くんじゃない。討ちに行くんだ。」

 

エアリスがきゅっと目を細めてクラウドの隣に座りなおした。淡々とした話の繋がりが、唯 気になった。

 

「嘘よ」

 

「嘘じゃない」

 

「あなた、負ける戦いはしないタイプじゃない、なんで?」

 

「俺が負けに行くような言い草だな」

 

クラウドが読みかけの本を閉じてエアリスに向き直る。その瞳は探るようだった。質問の真 意を知りたいと。

 

「ねえ、教えて。何でお兄さんにそこまで固執するの?あなたみたいな人が」

 

「俺が肉親の身を案じたら悪いって言うのか?」

 

エアリスの目が更に細められた。これから起こりうる、全てのことを見透かしているよう に、淡々としていた。

普段の彼女とは何か違うのをクラウドは見て、感じ取った。

 

「認めたわね。お兄さんが心配なんだ」

 

「・・・・・・」

 

エアリスは再びベッドに寝転がった。もう、知りたいことは全て知ったようだった。

 

「あんた、何が言いたかったわけ?」

 

「それだけよ、あなたがお兄さんのことどれだけ思っているのか、知りたかったの」

 

クラウドは更に訳がわからないと、肩をすくめた。

 

「何か関係が?」

 

「ふふ、きっとその神殿なにかあるわ。私の感よ。最初は漠然と思っただけだったど。今の クラウドの答えで分かったわ。きっとお兄さん、クラウドに会いたいのよ」

 

クラウドの当惑したような顔を見て、エアリスは笑った。

きっと、セフィロスはクラウドに会いたいのだ。そして、止めて欲しいのだ。唯一の肉親で あり、弟であるクラウドに。

 

二人がどのような少年期を過ごしたか、そしてどうのように別れたか、そんなことはエアリ スにはどうでも良かった。

 

今二人がお互いのことを考えている、それだけの事実があればどうにかなる気がした。

 

いま、この暗闇の、唯一条の光。それはクラウドとセフィロスの繋がりだ。

 

少なくともエアリスにはそう思える。

 

そうでなければ、誰が自分の居場所を教えるだろうか。

 

何故クラウドは吸い寄せられるように、疑う事無く漠然とした位置でしかない「南」に行く だろうか。

 

それはひとえにセフィロスがクラウドを呼んでいるからなのだ。

 

セフィロスの心はまだ「ジェノバ」に侵されきっていないのだ。

きっと強い心の持ち主だったに違いない。何と言う不幸だったのだろうか。

 

そして今、自分も何かに引かれている。

 

クラウドがセフィロスに引き寄せられるのと同じように。

 

 

 

―――不思議と、そう思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

ああ、自分の手を引く、この大きな手をした人は誰だろうか?

 

何だか酷く懐かしい感じがする。何故だろう。

 

クラウドは目を瞑ってみた。

 

匂い立つ様な熱気が辺り一面に広がった。目をそっと開くと、自分の目の前には懐かしい林 があった。

 

この木によく登ってたっけ。ときたま余りにも高い所に登りすぎて降りられなくなった。こ ういう時いつも迎えに来てくれるのはだれだっただだろうか。

 

 

 

ああ、来た。

 

兄さん。ここだよ。降ろして。

 

 

・・・・・・そんなことない。ほんとは一人で降りられるさ。兄さんが来るまで待っていた だけだ。

 

本当だって。

 

笑わないで。

 

なんだよ、そんな事言うこと無いじゃないか。

 

帰るって?分かってる。足が痛いだけだ。

 

おぶって欲しいなんていってないだろ?

 

ちぇっ。

 

 

クラウドはもう一度目を瞑ってみた。

 

金色の淡い思い出から抜け出して、幼き頃の自分たちを眺めているようだった。

 

 

俺は屈託無く笑っている。

 

いつから変わったんだろう。

 

・・・・・・変わった?

 

・・・・・・最初から間違っている。こんな思い出。

 

俺には幸せな思い出なんて無い。物心がついたときからスラムにいた。

 

なのに何でこんな思い出が胸を突くんだ?

俺は兄貴のことをどう思っていたんだ?

 

エアリスは俺が兄貴のことを心配しているだなんて言ってた。

そんな馬鹿げた事、あるわけない。

 

だって自分とセフィロスは・・・・・・。

 

 

クラウドの視界に楽しそうに話をしながら帰路に帰っていく自分たちが写った。

 

―――違う。

 

間違っているのは、この風景だ。

 

少なくとも自分たちがいたところはこんなに綺麗で平和なところではなかった。

 

帰る先に待っているのは、小さな暖かい家でも清潔なベッドでもない。

スラムのどこにでもあるみすぼらしい家だ。

 

 

 

でも、とクラウドは思った。

 

 

風景は違うかもしれない、

 

でも楽しそうに笑っている自分たちは嘘じゃない。

 

―――背景が金色の光纏う物から、急に現実感のあるスラムの薄汚れた路地裏へと変わっ た。

 

そうだ、これで何もかも違わない。

 

自分たちは幸福ではなかった。

 

最初の虚像も、こうでありたかった自分が、いや「子供の場所」を見ていただけかもしれな い。

 

 

 

それでも、

 

 

それでも、俺は兄貴といて・・・・・・

 

 

それを確認するだけで十分だった。

 

 

 

 

その答えに達した途端、幼い自分の手が、信頼していた兄の手の中から、するりと滑り落ち た。

 

クラウドは不思議そうに自分の手の平を見つめた。

何かを取り逃がしたかのような、空虚な気持ちになった。

 

兄は気づかないのか、自分のほうを振り向きもせずどんどん進んでいく。

いや、クラウドには分かっていて先を歩いてしまっているのだと感じた。

 

幼い自分が兄に追いつこうと必死で走る。

しかし、兄の大きな背は唯遠ざかるばかりで、一向に追いつきやしやしない。

 

そのうち兄の姿は虚空の彼方に溶け消えていってしまった。

 

残されたのは、暗闇に残された小さな子供一人。

泣きもせず、叫びもせず、唯立ちすくんでいた。

 

それをクラウドは酷く苛立たしく思えた。

 

何故、兄の後を追わない!?

 

泣き叫んで待ってくれるよう懇願すればいいものを!

 

しかし幼い自分は諦めたように後ろを振り返ると、そのまま無表情でどこかへ走り去って いってしまった。

 

 

 

正真正銘、闇の中にクラウドが唯一人いた。

 

 

光の無いその場所を見て、ああ、と気づく。

 

自分は置いていかれたのだ。小汚いスラムに、たった一人で。

 

兄は裏切ったのだ。自分の事を。

 

貧しい暮らしに耐えかねて、一人、成功の光り輝く道を進んでいったのだ。自分を見捨て て。

 

唯一の信頼していた肉親に見捨てられたことは、どれだけ幼い自分にとってショックだった ことか。

 

自分はあれから笑わなくなったのだろうか?

 

いや、それも違う。

 

ずっと前から笑えなくなっていた。

 

 

 

 

そうか、

 

そうなんだ。

 

 

自分は見捨てられたのだ。何もかもから。

 

 

 

 

 

そうだったのか―――。

 

 

クラウドの意識は急速に現実へと引き戻されていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

急に、夢にでたと同じ様な金の光がクラウドの瞼を差した。いや、正しくはそれに気づい た。

 

クラウドは顔にかかる厄介な前髪を手でかき上げながら、体を起した。

 

ふと、隣で寝ていたはずのエアリスの姿が無いことに気づく。

いぶかしげな表情を浮かべながら、クラウドはベッドを発った。

 

月の明かりにしてはいささか厳しすぎる光が気になって、クラウドは開け放した窓から外を 覗いた。

 

デッキをオレンジのライトの光が照らしている。

 

誰かがライトをつけたようだ。

 

自然と、その人物の姿を求めてクラウドは辺りを見まわした。

周りには黒いばかりの海。ライトはその少し手前を照らしている。

最小限まで絞った光の中ではクラウドとてその姿を見つけるのは、やや難しかった。

 

不思議とその姿はどこにもなく、クラウドはぼんやりと船内とデッキを通じるドア付近を眺 めた。

 

数秒の空白の後、ドアがやおらゆっくりと開いた。

 

デッキに出てきたのは見慣れた顔だった。

 

「エアリス・・・・・・?」

 

 

エアリスは片手にタオルを持っていた。

 

その意図をクラウドはすぐに察した。

 

一瞬、止めに行こうかどうか迷う。

 

しかし、例え海に落ちてもすぐに助けに行ける距離と考えれば、クラウドはエアリスを見守 ることにした。

 

 

―――エアリスは着ていたワンピースの裾を腿までたくし上げた。

デッキの柵には三箇所だけ開く部分があり、そこから海に自由に入ることが出来る。

 

そこのへりに腰をかけ、エアリスは海に足をつけ、ばちゃばちゃと水遊びを始めた。

 

自分の前では必ず止められると察してのことだろう。

別にそんなことはしやしないのに。

 

自分はそんなに過保護なのだろうか・・・・・。

 

 

月の光に映し出されたエアリスの白い肌はとても美しかった。

凛とした顔は、無邪気に華やいでいる。

 

それはまるで、ギリシャ神話の美の女神が舞い降りてきたのではないか、とさえ感じさせる ものだった。

 

本当に、その場だけ夢幻想に美しかったのだ。

 

その様子をクラウドは目を細めて見やった。

何故だか彼女を見ていると、嫌なことを忘れていく気がする。

 

彼女は限りなく無邪気で、優しく、そして美しいのだ。

 

 

エアリスがつい、と立ち上がった。

 

もう水遊びは終わりらしい。まあ、泳げないのではすぐ飽きるだろう。

 

エアリスはタオルで丁寧に自分の脚を拭った。

 

水で洗わなければいけないことを教えてやろうか。

 

彼女が無事デッキへと戻ったのを確認すると、クラウドは窓を開け放ったままベッドに横に なった。

 

大きくあくびをして寝そべりつつ暫く待っていると、エアリスがそっとドアを開けて現れ た。

 

 

寝たふりをしてやろう、という悪戯心がクラウドに生まれる。

 

エアリスは当然気づく事無く、ベッドまで忍び足で近づくと、そろりと元通りクラウドの隣 に寝ようとする。

 

こっそり部屋を抜け出して、深夜の、―――しかも泳げないくせに―――看板へ出るのが過 保護のクラウドの基準からするといかに重罪だか、分かっての行動だろう。

 

深夜の海がどうのこうの言う前に、クラウドを出し抜けると考えているほうが可笑しいのだ が。

 

 

エアリスが毎秒3aという、大変のろいスピードでベッドの中に滑り込んでくる。

 

エアリスがやっとのことで片足をベッドに潜り込ませる事に成功したとき、はた、と自分の ほうを呆れた顔で凝視しているクラウドと目が合ってしまった。

 

「ひゃ!・・・クラウド……起きてたの?」

 

エアリスが恐々聞いてきた。

自分に怒られると思って恐縮しているらしい。

自分はそんなに恐いのだろうか……?

 

クラウドは呆れ返った顔でベッドに座りなおした。

 

「あんた、何してたわけ?」

 

クラウドが分かっているくせに、意地悪そうに聞いた。

 

―――エアリスをからかうのは面白いのだ。

 

しかし、エアリスはクラウドが今ほど起きたのかと勘違いしたようで……

 

 

「えへへ、トイレ!」

 

と、笑って返してきた。

 

これでは、母親に嘘をつく幼児並みだ……、とクラウドは思った。

 

いや、奴らのほうがまだ、ましな言い訳の一つでも考えられるのではないだろうか?

 

自分では、誤魔化しきれていると勘違いしているのだ。

 

エアリスも、同レベルだ。

 

「へえ、デッキのライト、点いてるぞ?」

 

「え!」

 

エアリスは慌てて、開けっ放しのドアから外を覗いた。

 

しかし、デッキにはライトは点いているはずも無く(そもそも消したのは彼女自身で)、エ アリスは不思議そうにクラウドを見つめた。

 

自分が一杯食わされたことにすら気づいていないのだ!

 

クラウドは枕に顔を埋めて笑いを噛み殺した。

 

「あんた、髪に塩付いてる」

 

クラウドがエアリスの前髪の辺りを指す仕草をした。

 

エアリスが前髪をぱたぱたとはたいて、付いてもいない塩を落とそうとした。

それでも結局場所が分からなかったのか、クラウドのほうに近づいて、取ってもらおうとす る。

 

「ね、取って?」

 

小首をチョコン、と傾げる、お決まりのおねだりポーズでお願いする。

 

クラウドは苦笑しながらエアリスの細腰を引き寄せ、付いてもいない塩を取るフリをした。

 

そろそろ鼻を明かしてやろうと思い、クラウドは彼女の翡翠の瞳を覗き込んだ。

 

「なんで、塩なんて付いてるんだろうな」

 

軽く引っ掛けたつもりだったが、エアリスは面白いように動揺した。

 

こんなこと、いくらでも誤魔化しようが有るだろうに……。

 

「・・・・・・・・」

 

答えられずに黙ってしまった。

 

その顔が余りにも困惑しきっているのを見て、クラウドは耐え切れずに吹き出した。

 

「あんたって……無茶苦茶だ!」

 

エアリスが何で自分が笑われたのか分からず、不思議そうな表情をした。

 

「ばれてるって。塩なんて、はなから付いてない」

 

エアリスがことを理解するのにゆうに三十秒はかかった。

 

しかし事を理解するに連れ、表情が固く強張ってくる。

 

途端に怒り出した。

 

「もう!騙したのね!最初から分かってたんだわ、酷い!!」

 

「黙って言ったのはあんただろ、危ない」

 

エアリスが面白く無さそうに頬をぷっと膨らませた。

 

その表情が可愛すぎて、クラウドはエアリスの頭をくしゃくしゃに撫でた。

 

「なによ!」

 

エアリスが憤然と言い返す。

 

遊ばれたことが許せないらしい。

 

が、クラウドは肩をすくめて言った。

 

「足、洗わなかったら痒くなるぞ。あんた、敏感肌なんだから気をつけろよ」

 

「でも、拭いたわよ」

 

もう、眠たそうな彼女の腕を掴んでクラウドは半ば引きずるようにして、備え付けのバス・ ルームに連れて行った。

 

エアリスはぶーたれていた。

 

「クラウド、もう眠い」

 

明らかに不機嫌そうな顔だった。

 

クラウドはまたお決まりの、肩をすくめるポーズをとった。

 

「洗うのが普通なんだ。それに海に入ったのはあんただろ」

 

うっ、と大人しくなった彼女をクラウドはバスの縁に座らせた。

 

彼女の繊細な足を傷付けない、柔らかいスポンジに泡をたっぷり含ませて、クラウドは彼女 の足を洗ってやった。

 

「クラウド、もういい」

 

エアリスが恥ずかしそうに身じろいだ。

 

しかし、クラウドがそれを無言で制した。

エアリスが再び大人しくなる。

 

綺麗に濯いでやって、柔らかなタオルで丁寧にふき取ってあげて、クラウドは彼女がまるで お人形さんか何かのように優しく扱った。

 

 

自分の中では、彼女はもはや一番の存在、とまでなっていた。

 

とても大切にしたいと思うのだ。

 

何故だか、理屈を全て超えたところで、彼女を守らなくてはいけないような気がするのだ。

 

彼女が好きだとか、そんなことを超えたところでなにか……大事だと思うのだ。

 

クラウドにはその理由は分からない。

 

「なあ、あんた」

 

クラウドがエアリスに問いかけた。

 

「なあに?」

 

エアリスは僅かに体を乗り出して、クラウドの瞳を覗き込むような仕草をした。

 

その真剣な眼差しにクラウドは耐え兼ねそうになる。

 

エアリスは、人の言いたいことが分かるのだろうか・・・・・・?

 

たまに、どんぴしゃのタイミングで、言いたいことを汲み出すように言葉を紡ぐ。

 

「なんでもないんだけどさ・・・・・、その・・・俺といて、嫌な気持ちにならないか?」

 

「え?」

 

エアリスがほんの少し、弾かれたように身を起した。

 

質問の真意が分からず、その意図を測りかねているようだった。

 

「どういうこと?」

 

瞳が不安そうに揺れる。

 

エアリスは思った。

 

 

この人のこともっと分かってあげたいのに、なのに、私わからない・・・。

 

 

折角のチャンスを取り逃がしたかのようにエアリスは歯噛みしたい気持ちになった。

 

もしかしたら、クラウドが自分について話してくれるかもしれないのに。

 

「いや、どういう風に見えるのかと思って」

 

クラウドが踵を返してバス・ルームを後にしようとする。

 

「え、あ、ちょっと待って…」

 

エアリスが追いすがろうとするがクラウドはもうその話をしなかった。

 

「悪いな、変な話して。もう、寝よう」

 

 

 

その日、クラウドはもう口を開かなかった。

 

 

 

 

 

 

 

「ハイウィンド」が闇空を切り裂いて波を燻らせる。

 

次第に薄くなり始めた空が、暖かい日の出を誘う。

 

雲から漏れた一条の朝日が、一同を指し示す道しるべのように水面を照らした。

 

 

クラウドは船体に寄りかかりながら、その様子をぼんやりと眺めていた。

 

別に日の出が見たかったわけではない。ただなんとなく、眠れなかったから看板に出て、ぼ うっとしていたに過ぎない。

 

 

澄み切った大気はいつにもまして蒼く、穏やかだった。

 

風が雲を切って流れクラウドの金糸の髪をいたずらに揺らした。

 

もう、何時間ここにこうして座っているだろうか。

 

 

いい加減暑くなってきた。でも、不思議と船内に戻ろうとは思わない。

 

エアリスはまだ、眠っているのだろうか。

 

 

 

その時、ぎぃっとドアの軋む音がしてデッキに誰かが入ってきた。

 

 

こういうとき、いつもタイミングよく現れるのはエアリスだ。

 

しかし、入ってきたのはクラウドの期待に反し、ティファだった。

 

 

彼女は艶々した黒髪をばさっとかきあげた。

 

女性らしい優美な曲線美を誇る体は相変わらず、筋肉で引き締まっていた。

 

「なにしてんの?」

 

ティファはぶっきらぼうに問うた。

 

そっとクラウドの隣に腰掛ける。

 

クラウドと同じく黒を基調とした服装のティファは、ほんの少しばかり威圧的な雰囲気をか もしだしていた。

 

「なんでもないさ」

 

クラウドはそんな彼女と目を合わせる事無く答えた。

 

自分だって、何だってこんな所に独りでいるのか、分からない。

 

「日の出見物?」

 

「まあね」

 

気のない答えにティファはふぅん、と頷いた。

 

目が怒っていた。

 

彼女はぐるりとクラウドを凝視すると、唐突に口を開く。

 

 

「来てあげたのよ。一人でうじうじしながら、こんな所に三時間!何考えてんの?」

 

ティファは心からクラウドのことを心配しているようだった。

 

 

幼い頃からスラムで一緒に暮らしてきて、彼のことを本当の兄のように思い、慕ってきた。

 

彼は自分のピンチのときには必ず助けに来てくれるヒーローだったし、自分の救いの王子様 になってほしいと幼心に頼んだことも、一度や二度ではなかった。

 

崩れかけた廃墟のような一角で震えていた自分に毎日ご飯を持ってきてくれたのも彼とザッ クスだった。

 

字の書けない自分に、毎日毎日教えてくれたのは他でもない、ザックスだし、初めての月の 障りの時、てんやわんやしながらカームまで走って行ってくれたのはクラウドだ。

 

 

三人は家族も同然だし、お互いを大事に思っている。

 

ティファは彼らを愛している。

 

 

なのに不安の一つも打ち明けてくれないのは腹立たしかった。

 

 

 

「本当に、何も考えてないんだ」

 

クラウドは目を伏せて言った。

 

別にティファに話すようなことでもないし、言って心配させるのも何だか気が引けた。

 

クラウドがティファの脇を通り過ぎようとする。デッキを出て行く背中をティファは見送っ た。

 

完全にその姿が消えたのを確かめてから、ティファはふ、と溜息を付いた。

 

 

クラウドは普通じゃない。

 

それが彼を昔も今も苦しめている。

 

でも、自分にとっては普通の兄弟だ。

 

なんとかして助けてあげられないだろうか・・・・・・。

 

 

暫く考えてティファは首を横に振った。

 

やっぱり無理だ。

 

自分は所詮他人なのだ。本当の家族でもなければ、恋人でもない。彼を暖かく包んであげら れる要素など何一つ揃えてはいないのだ。

 

 

もしかしたら自分は一番クラウドから遠い存在なのかもしれない。

 

それでも、やっぱり何とかしてあげたい。

 

 

ティファは自室に戻る途中でクラウドとエアリス寝室に立ち寄った。

 

・・・・・・エアリスは何とかしてしてはくれないだろうか・・・・・・。

 

 

そんな期待を抱きながら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

続く