Cold herat−ed]Z
暗雲
男は女の前に立った。
女はせつない瞳で男を見上げ、傍らに立つ子供を促して、男の前に立たせた。
「・・・抱いてあげてください」
男は怜悧な表情を崩さず、しかし女の要望に応えて子供を抱き上げた。
子供は喜んで男の腕の中で無邪気に笑う。
女の腹は膨れ、新たな命の萌芽を感じさせた。
男は事も無げに子供を女に手渡すと、一言も言葉を発することもなく女の傍をすり抜けていった。
女は子供に語りかけた。
「良かったわね、お父様に抱いていただいて・・・良かったわね」
子供がまた、明るい声で笑った。
自分を闇の中から呼ぶ『あの者』。
酷く、優しくて。
酷く、残酷で。
笑って、母を消した―――。
―――そんなこと、あるわけない!
「エアリス?」
背中に回された手が、がたがたと震えていた。
エアリスは、顔を恐怖でゆがめて今にも泣きそうな顔をして、自分にすがり付いていていた。
「エアリス、案内してくれ・・・どうしたんだ?」
繋ぎとめるかのように回された腕に、クラウドは自分の手を重ねた。
震えは収まらず、触れた瞬間びくりと跳ねて、更に震えがひどくなる。
「ただ・・・の夢。気のせいだから、気のせいだから!いっちゃだめ!」
そこには、理論など存在しなかった。
エアリスは沸き起こる恐怖のみに突き動かされて、必死でクラウドに懇願する。
「お願い・・・怖いよう・・・」
怖い、そういう彼女はまるで童女に戻ったかのようだった。
あれは夢。
全て夢なのだと、そう思わなくては、信じなくては大事なものが手からどんどん零れ落ちてしまいそうだった。
そしてそれは、まるで水のようで、ひとたび零れてしまえば二度と集めることはできない。
エアリスの大事な、思い、記憶。
母が―――消えてしまった母が、エアリスには忘れていることがある、と言っていた。
『あの者』は自分を入れ物と呼び、その冷え切った声音が、エアリスを次々と襲っては、触れたところから凍りつかせていった。
そしてそれは、エアリスの大事なものをそっくり奪う力を持っているのだ。
エアリスは困惑した表情で自分を見下ろしてくるクラウドの瞳を見つめた。
青い影が、神秘的にゆらゆらと揺れるその瞳の奥に、自分が映る。
そこに映っているのは誰?
自分?
記憶がないからただの入れ物だとすれば、彼の瞳に映っているのは果たして本当の自分なのだろうか。
わからない。
『あの者』は、彼だって奪えるのだ。いとも簡単に、そして最も早く、ごく当たり前のように。
だから、エアリスは『あの者』を認めることはできなかった。
認めてしまえば、全て無くしてしまうのだ。
母は殺された。ティファはいない。
全て全て、『あの者』のせい?
ならば・・・・・・。
「嘘だよ、夢だよ・・・信じれるわけない!そんなわけ・・・ないィ!」
―――やめて、やめて・・・これ以上!
大事なものを奪わないで。このままでいたい。大好きなティファ、ザックス―――そして誰よりも愛するクラウド。
自分は彼らといたいだけなのだ。
彼らを脅かす悪しきものを取り除けたら、それで良かったのだ。
なのになんで、一番恐ろしいことを・・・恐ろしい現実『かもしれない』ことを押し付ける?
心の奥底にしまいこんで、心の墓場に葬りたい『恐ろしいこと』!
「エアリス、疲れているんだろ?抱えてやるから、さあ・・・行こう?」
クラウドは努めて思いやりのある声で、エアリスを抱きかかえた。
エアリスは多大な情報に参って疲れ、取り乱しているように見えた。
―――違う!
エアリスは、そう叫びたかった。
違う。疲れているのではない。わけもなく取り乱しているのでもない。
降ろして。自分の足で歩けるから戻ろうと―――エアリスはそう言いたかった。
クラウドは行ってはいけない。もちろん、ザックスもティファも。
行ったら恐ろしいことになるから、行ってはいけない。
大切なものは取り戻せないから。行ったら取り戻せなくなるから―――エアリスはそう言いたかった。
ところがどうだろう。
彼女の意思に反して、声帯はちっとも振るわなかった。
そしてどうしたことだろう。
彼女の望みに反して、体はちっとも動かなかった。
頭のてっぺんから足先まで、クラウドにしがみついた格好のまま、ぴくりとも動かない。
恐ろしさに震えることも適わない。
行かないでと、そう懇願することも涙を流すこともできない。
心が恐怖で満ち溢れているのに、救済のシグナルを発することが今や完全にできなくなっていた。
エアリスは愕然とした。
―――『あの者』だ!
『あの者』が、自分にこのままでいろと、余計なことはするなと、そう圧力をかけているのだ。
エアリスはなす術が無かった。
エアリスは過去を知らない。
『あの者』のしたことを、本当の意味では知らない。だが、母と父から教えられた『あの者』の恐ろしさ。
絶大な力で、星を掌握した―――忌わしき者(ジェノバ)と。
クラウドとザックスは果てしない階段を降りていく。
エアリスは微動だにできないまま、この階段がいつまでも続いてくれれば良いのに、と思った。だがそんな願いも虚しく、螺旋が12の弧を描ききったころ、階
段の向こうに石でできた扉が見え始めた。
階段の終わりと扉は同じ場所だった。
ザックスが軽く手で触れると、淡い青光を散らしながら扉がすっと消える。
その先には、真っ暗な通路があった。石を積み重ねて作ったような通路で、幅は狭く、その先に絶望が穿っているように思えた。
いや、間違ってはいない。
確かに、絶望が待っている。彼らを飲み込まんとして、大口を開けている。
エアリスはできることなら、全身で縮み上がりたかった。
しかしそれが適うはずも無く、心の中は諾々とした恐怖に満ち満ちていた。
エアリスはそれに必死で抗いながら、唯一機能する眼球をめいいっぱい動かして、辺りの様子を探った。
だけど何も無かった。
クラウドとザックスの、ティファとエアリスの加重がかかった足音が静かに木霊するだけで。
自分は今、ティファと全く同じに感じられた。
ティファは動かない。この広いマインドフィールドの中で、一人ぼっちでいるのだろうか。
自分も大して変わらない。愛する人たちが絶望の終焉に向かうのを止められもせず、ただ抱えられて、地獄へと落ちようとしている。
死んでしまったようなティファと一体どこが違う?
生ける屍のようだ。
動けない。
深い諦めと、抗いたいという本能のような欲求が交互に顔を現しては、ただ現実という名の闇に消えていく。
現実と圧倒的な力の前には、どんな願いも無力だと思い知った。
諦めることも、抗うこともできない。
何をしようともしなくとも、現実だけがスクロールして着々と近づいてくる。
でもやはり―――
クラウド、行かないでと。そう言いたい。
パニックに陥ってしまえれば、どれだけ楽だっただろうか。
取り乱してわけもわからない間に、全てがやってくる。
だが、『あの者』はエアリスからそれさえ奪ってしまった。
着々と近づく現実に恐怖し、無力を嘆き、愛するものたちを失う未来をかみ締めろ、と。
『あの者』は残酷なことをエアリスに突きつけるのだ。
エアリスは声をあげて泣きたかった。
だが、『あの者』はそれさえ許してはくれないのだ。
苦しみの果てに、絶望を見ろと。そう命じるのだ。
自分に一体何ができるだろう。
この、屍のような体で。
囚われたまま、『あの者』の手の中で踊り続けるだけの自分に。
考えた挙句、エアリスはたったひとつの答えに辿り着いた。
わたしは何もできない。
ティファは、ライフストリームの中で、上へ上へと向かっていた。
その胸には、決然たる決意が秘められていた。
否、それはもはや暗示に近かったかもしれない。
マインドフィールドと言う、精神に最も近しきその場所で、たった一人の孤独と相反するかのような幸せを味わい、『任務』を与えられた彼女にとっては。
精神に直接流れ込んだそれらの情報が、ティファの意識無意識をそっくり染め上げた。
強力な干渉を経て、ティファと言う明るく朗らかな人格は一時的に崩れ去り、父に従うだけが全てな『子供』へと様変わりする。
今、ティファの胸のうちには、“パパ”との約束しかなかった。
“パパ”との約束を必ず守る。そして“パパ”と“ママ”に会う、そして―――
「一緒にいてね、“パパ”“ママ”!」
それだけが、今の彼女にとって全てだった。
石の狭い通路を抜けると、そこには大きな円状回廊があった。
回廊はちょうど中心がくり貫かれた同心円になっており、回廊を囲むかのように、巨大な12体の守護像が重々しく立っていた。
ザックスは同心円の中心に近づく。そこから下を見下ろすと、遥か下方に真っ青な湖が広がっているのが見えた。そしてその湖の中央に、何やら階段のようなも
のと、“踊り場”のようなものが蕾のような薄い皮膜で覆われてたたずんでいるのが分かった。
「クラウド、あれだ・・・」
クラウドも下を覗き込み、ややあって首をかしげる。
「どうやってあそこまで降りるんだ?」
「探索してみよう」
二人は頷き会って、回廊を半時計周りにじゅんぐりと回った。
回廊の周りの壁に埋め込まれた“守護者”の像が、遥か高みから自分たちを見下ろしてくるのが不気味だった。
「あれは何だ?」
回廊を四分の一ほど進むと、豪壮な装飾の石台の上に、透明な物質でできた聖杯が置かれているのが見えた。
ザックスがその周囲をぐるりと回り、しげしげと物珍しそうに眺める。
それからクラウドのほうを向いて、彼の出方を伺うように、じっと見つめた。
「・・・触ってみる?」
先ほど触れた瞬間スパークした像を思いだして、クラウドは彼の問いかけに首を横に振る。
「いや、そっとしておこう。それより先へ」
ザックスは頷いて更に歩を進めた。
そうして分かったのは、自分たちが入ってきた方向を六時とすると、三時と十二時、九時の方向に同じ聖杯が置かれているということだけだった。
クラウドはため息を付いて、もう一度中央に穿われた空間から下を見下ろした。
その下で、全てを飲み込むかのように青い湖がゆらゆらうごめく。
自分まで引き込まれそうで、クラウドは逃げるように目を硬く瞑った。
―――あそこにティファがいるかもしれない。
ほんの少しだけ胸のうちに希望が灯り、しかしその希望が何の根拠もないことに気づいて、またため息を付いた。
だいたい、あそこにどう行けばいいのか。
ここから体を湖に叩きつけられるのを覚悟で飛び込むか?
・ ・・馬鹿げている。
クラウドは聖杯があった方向へ視線を傾け、それからザックスに抱えられているティファへと視線を移動させた。
ぐったりとして、まるで死体のよう。
自分が抱えているエアリスは、しっかりと首に手を回してかじりついている。
顔は見えないが、彼女から伝わる暖かさと確かな鼓動が、クラウドを安堵させた。
―――ティファ、まさかこのまま死んだりしないだろう・・・?
幼いころから共にいた彼女。
過去に何があっても変わらない、大事な彼女。
強く、優しく、美しい―――大輪の花のように笑って、悲しげな表情など似合わない彼女が、死ぬかもしれない。
人はいずれ死ぬ。
なのに、彼女と“死”は全くもって似合わない。そうクラウドに思わせるほど、ティファは活発で、いつだっていきいきしていた。
その彼女が、冷たくなって、だらりと口を開け、そこからか細く息をするだけなど、あまりにも非現実的で、ナンセンスな冗談に思えた。
だが、現にティファの瞳は硬く閉じられ―――
「・・・うわッ!」
刹那、ザックスが驚きの声を上げ、クラウドは逡巡から目が覚めた。
クラウドにはなにが起きているのか分からなかった。
ザックスが跳ね飛ばされて、豪快に尻餅をつき、そこから・・・そこからティファが―――
ティファが飛び出した!?
「な・・・っ!?」
クラウドも上擦った声を上げ、矢のように駆けていくティファを呆然として見送った。
だが、ザックス怒声が彼を現実へ引き戻す。
「止めろ!ティファを止めろぉぉぉぉっ!」
しかし、実際ティファを初めに追いかけたのは体勢を立て直したザックスのほうだった。
クラウドも、ザックスに触発される形でティファの後を追いかけていく。
だがエアリスを抱えて、ザックスとティファに付いていくことは無謀としか言いようがなかった。
だが仕方がない。ここでエアリスを走らせても、もっと遅くなるだけだ。
エアリスが一言も言葉を発さないのを不思議に感じつつ、クラウドはじりじりと離されていく、二人の後ろ姿を認めて、一人悪態をついた。
エアリスはいよいよ、恐怖におののいた。
―――ティファが動いた!
その待ち焦がれた事実も、今となっては恐ろしい現実でしかなかった。
『あの者』が動き出している。・・・と言うことは図ったように動き出したティファも?
そう、ティファもそうだ。間違いない。
エアリスにはクラウドの顔も、何かに突き動かされるように猛進するティファも、その彼女に追いすがるザックスも見えはしなかった。
だが、この場所の特異な性質が、自分の感覚に訴えてくる。
―――危険だと。
だがエアリスには何もできない。
相変わらず体は全く動かず、自分のものではないようだ。
この広い場所のどこかで、『あの者』がせせら笑っている気がした。
星を己の邪念で支配し、人々を殺し、母を“殺し”―――そしてティファをそそのかす『あの者』が、自らの業を遂げようとして、『自分たち』を躍らせなが
ら。
だが、何度も思い至ったように、エアリスは真の意味で『あの者』を知らない。
母は真の意味で『あの者』を知っているようだった。
なぜ?当の昔の恐ろしい『御伽噺』。それは伝承。しかし真実。
真実とはいえ、エアリスにとって、『あの者』とは、母や父が教えてくれた恐ろしい話に過ぎなかった。
事細かく『あの者』の所業を教えられても、それはエアリスにとって、ただの昔話に過ぎなかった。
それは当然の反応だと思う。
父と母の話によると、『あの者』はこの星から消滅したのだから。
消滅したものを、恐れる必要など全くないではないか。
だからエアリスにとって、『あの者』とは、遠い昔話に存在した、『怖いもの』以上の認識はなかった。
だが、今になって思う。
『あの者』について教えてくれた父と母は―――真の意味で、『あの者』を知っている口ぶりだったと。
父と母にとっても、当然『あの者』は彼らの両親から教えられた古い、伝承に過ぎなかったはず。
だが、彼らの態度はまるで・・・。
心から『あの者』を憎み、恐れ、まるでトラウマのようにエアリスに何度も語っていたのではないか。
そう、真実の意味で父と母は『あの者』を知っている。
『あの者』と同じ時間を生き、その闇に触れ、死の淵を歩いたのではないだろうか・・・?
そうだとしたら、『あの者』が消滅したと思っていたのは、父と母の思い違いだったのではないか。
『あの者』はその闇を抱えたままこの星のどこかにいて、復活のときを待っていたのではないだろか?
そして父と母が星に戻った際に、その真実を知ったとしたら・・・。
―――神殿に三つの礎。
母が言っていた言葉を思い出す。
『私たち』とも言っていた。
だが、エアリスを助けてくれたのは母だけだった。
『あの者』に母一人で対抗するなど、無理に決まっている。
だが、来たのは母だけだった。
そして母は一人『あの者』に立ち向かいそして――――――“殺され”た!!
と言うことは、父もすでに“殺され”たのではないか?
だから母一人しかいなかったのでは?
そんな可能性がエアリスの心を覆い、溢れ出した恐怖が体を浸す。
だが、耳に届いたティファの怒声が、エアリスを一時だけ恐怖から解放した。
「―――っ邪魔をするなぁぁぁ!」
怒声。衝撃音―――そして、ザックスのうめき声。
ずず・・・と地面を擦れる音が聞こえ、エアリスはザックスがティファに吹っ飛ばされた瞬間を思い描くことができた。
追いついたクラウドがザックスの隣をすれ違い、エアリスにもやっとザックスの姿が見えた。
ザックスはちょうど立ち上がろうとしているところで、怖気づいた様子は全く見られず、ティファを苦渋に満ちた眼差しで見つめていた。
そして、立ち上がったかと思うと、エアリスの目にとまらないスピードで、クラウドよりも早くティファに肉薄した。
その形相は必死だった。
―――ザックスも、知っている・・・?
なぜだか不思議と、エアリスはそのことに疑念を抱かなかった。
一拍のちに、クラウドもティファに追いつく。
だが、ティファのほうが早かった。
その表情は恍惚としており、彼女のものではないようだ。
やはり、ティファは『あの者』に心を犯されたのだ。
その真実でさえ、拒否感を伴わずエアリスの心へすんなりと入ってきた。
それは諦めだったかもしれない。
悲しみに満たされた少女の心が、ただ単に無感動になっただけかもしれない。
だがそのどちらでも言えることは、“エアリスにはなにもできない”ということだ。
エアリスは物理的にではなく―――むしろ心理的に目を閉じた。
もう、何も見たくは無かった。
やはりそれは、諦めだったかもしれない。
でも、もうどうでも良かった。
ただ、エアリスは動かない腕に力をこめ、クラウドに抱きついた“気”になった。
クラウドはなんて暖かいんだろう。
優しくしてくれた。守ってくれた。
今だって、お荷物な自分にいやな顔をすることなく抱えてくれている。
すばらしかった。彼に出会えてよかった。
でも、会ってはいけなかった。
間違っていた。
それは破滅への入り口だった。
でも―――
なんて、なんて“彼”は暖かいのだろう!
今だけ、クラウドに抱きついていたい。
最後に、クラウドの優しさに包まれていたい。
そして、エアリスの背後で目もくらむほどの光が散った。
ティファが聖杯に触れたのだろうか。
瞬間、エアリスの体を拘束していた力が消え、エアリスはまぶたをそっと閉じた。
白い閃光がまぶたの裏を焼く。
その時でさえ、クラウドはエアリスを抱えたままでいてくれた。
彼がその手からエアリスを離すときが“最後”だと、なんだか思った。
光が消え、エアリスは目を開けた。
そこはエアリスの知っている場所だった。
目の前に螺旋階段。その下に、青い湖。広がる青い空間。
ここは、祭壇だ。
『あの者』がエアリスをいざなったのと同じ、祭壇だ。
エアリスはのろのろと自分の背後へと首を傾けた。
あの時にはなかった人ほども大きい結晶が、きらきらと輝いて光を放っているのが見えた。
だが驚いたことに、その場には彼ら以外の者が静かに立っていた。
長い銀髪で、切れそうなほどに冷たいアイスブルーの瞳―――クラウドにそっくりな瞳、顔。
―――あれは・・・っ!
エアリスはすがるようにザックスに視線を向けたが、彼はただ顔を絶望の色に染めて、結晶を見上げていた。
その人物は明らかにセフィロスだった。
だが、その銀髪の男は、一言も発しないまま、ティファの所作を見守っている。
輝く結晶にティファが近づいていく。
まるでスローモーションのようだ。
エアリスは美しいと思った。
きらきら輝く祭壇と結晶。それに照らされたティファ。
その背後では、彼女と結晶を守るかのように、セフィロスが刀を掲げている。
―――ティファがいたわるように結晶に手を触れた。
その時、結晶がぱっと輝き、溢れた光が辺りを包む。
絶望の始まりを告げるにしては、いささか光は美しすぎた。
光は優しくティファとセフィロスとザックス、クラウドとエアリスを包み込み、それぞれ収束して、彼らの体の中に納まった。
光が消え、沈黙が舞い戻った。
エアリスはきゅっとクラウドの服の袖を掴む。
さようなら、“クラウド”。
セフィロスが刀を鞘に戻して、クラウドに前に立った。
その無機質な瞳は、『あの者』にそっくりだった。だが、セフィロスは『あの者』ではない、ということをエアリスは痛いほど知っていた。
セフィロスは、『あの者』ではない。
この銀髪の男が『あの者』だったら、どれだけよかっただろう。
セフィロスからクラウドを攻撃する雰囲気は微塵にも醸し出されていなかった。
むしろ、彼から発せられるのは、厳粛なそれだった。
ぴん、と張り詰めた空気があたりを支配した後、セフィロスは唐突に膝を折ってクラウドの前に身をかがめた。
そしてクラウドそっくりの薄い唇から、やはりクラウドに似た憂いのある声が発せられた。
「我が主、クラウド。・・・力を返します」
そしてティファが歓喜の表情で、近づいてくる。
そして、二人の目の前で止まり、白い歯を見せて笑った。
ゆっくりと、クラウドがエアリスを地面に下ろした。
彼がその手からエアリスを離すときが“最後”。
―――ああ、さようなら“クラウド”。
結晶がぱりんと音をたてて粉々に割れ、光となって空気に溶け消えていった。
―――さようなら。
だが、ティファの口から溢れた喜びの声は、エアリスを驚かせた。
全く予期していなかった言葉だったからだ。
ティファは今にも泣きそうな顔で、言った。
クラウドとエアリスに向かって―――
「“パパ”、“ママ”・・・会いたかったっ!」
―――え?
だが次の瞬間、疑問が口をつくよりも早く、大量の記憶が突風のようにエアリスの全身を打ち抜いていった。
満点の星空。
ちょっと肌寒い外気。
先ほど神殿から出てきたばかりの男は、自分の恋人を探して当たりに目を配らせた。
神殿の裏にある、小高い丘へとやってきて、ようやく彼は自分の意中の人を見つけた。
「イファルナさん!」
緑の丘に腰を下ろし、長く艶やかな栗色の髪を風に揺らしていた女性が、そっと後ろを振り返る。
彼女も自分の恋人を視界に捉えて、愛らしい笑顔を向けた。
「ガスト」
その唇から外見にそぐう美しい声が発せられ、ガストはほうっと感嘆のため息を付いた。
「だめですよ、イファルナさん。寒いですからこんな所にいては」
イファルナはその愛らしい顔をやはり美しく歪めて、ガストを睨みつけて言った。
「“さん”付けは止めてって言ったでしょう!私たちは恋人なんだから!」
相変わらずのイファルナの率直な物言いに、堅物のガストは顔を赤らめた。
「で・・・ですが、あなたはパルミド大僧正倪下の娘ですし・・・」
この星の統治者であり、さらには自分が最も尊敬する大僧正の娘である、イファルナに・・・。
と言うのが、彼の認識だったが、あいにくイファルナには通じなかった。
「お父様が?そんなこと関係ありません!わたしが良いって言ったんだから、良いんです!」
「は・・・はあ・・・。では、イファルナ」
イファルナはにっこりと笑って自分の恋人を見つめた。
この真面目なところが彼の良いところではあるけれど、ちょっと堅すぎると思う。
仮にも自分たちは恋人なのだし、対等の関係と考えても良いではないか。
それに、彼は自分を過小評価しすぎた。
父は、天才的な星読僧である彼を高く評価しているのだから、もっと胸を張れば良いのに。
まあ、ここで驕り高ぶらないのが彼の良いところだけど、それでも!
「ねえ、今日は何か変わったこと無かった?」
イファルナは身を乗り出して、ガストに尋ねた。
星と精神をリンクさせ、星の動向を読む星読僧は、一番父の近くで働くと言う特権を持っている。
そして最も神聖な“祈りの祭壇”へも入ることができる。
彼はそんな唯一の星読僧で、父と共に神事を務め、星の動向を父に伝える。
その話を毎日聞くのが、いつのまにかイファルナの日課になっていた。
ガストは自分のガウンを脱いで、そっとイファルナの細い肩にかぶせる。
こういうところが好きなのだ。
決してハンサムなわけではないけれど、誠実で優しいこの人が。
「今日は、星の流れが随分と・・・随分と、躍動していました。とてつもないエネルギーの流れが一点に向かって混流し・・・今まで見たことが無いほど
で・・・。その全貌が全く捉えられませんでした」
イファルナの表情に影が落ちる。
「あなたの能力でもわからなかったの?すずめが一匹木から落ちたことさえ、星から読み取れるあなたが?」
ガストは頷いた。
「大きすぎて、逆にわからないんです。星読みをすれば誰にだってわかるほど大きなライフストリームの流れなのですが、何が起きたのか絶大すぎてわからない
んです」
「お父様は?お父様はなんておっしゃっていたの・・・?」
「倪下も、全てはお分かりにはならなかったようです。ただそれが、命の形だとおっしゃっていました。今も倪下は星読みをなさっておられます。私も明日から
は一日中補佐をさせていただくのですが・・・」
イファルナはぐっと黙り込んだ。
偉大な大僧正である父でさえ、その正体がわからなかった?
一体何が、この星に起こっているというのだろう。
イファルナが頭をガストの肩に乗せると、ガストはどぎまぎしながらそっと彼女の腰に手をやった。
「だ、大丈夫です!あ、あああああ、あなたは私が守ります!」
この行動と言葉を発するのに、どれだけ彼が勇気を奮い起こしたのかと想像して、イファルナは羽のようなキスをガストの頬に送った。
満天の星空を、流れ星が次々と駆ける。
―――同時にその時、都の外で、誰の目にも留まらない集落で、一人の男の子が生まれた。
ライフストリームのうねりを一身に受け、金糸の髪と青い瞳を持った赤子が産声を上げる。
誰からも疎まれる罪人の集落の赤子と、華やかな都の誰からも尊ばれる恋人たち。
彼らの境遇は大きすぎるほどかけ離れていたが、数年後に生まれる子供が彼らを結びつけることになる。
今、彼らに共通していることと言えば、それは頭上に広がる星空ぐらいだった。
遥か昔―――
人々が星の力を使って生を営んでいたころ、気候の温暖なその地を中心に、サンクトリプトと呼ばれる都が存在した。広大な都は神殿ミュニエルから10キロほ
ど西に位置する“星の丘”を最西端とし、その裾野は人の住めるあらゆる地に広がっていた。
それこそ、人口の85パーセントが住めるほど広大な都市だった。
さらに、サンクトリプトの中でも、ミュニエルを中心とした一帯は、センタラスと名づけられ、最も格式の高い場所とされていた。
政治―――厳密に言えば政治ではない―――は、ミュニエルの大僧正パルミド・ダラス・ガヴァリエが最高権力者として、星そのものを治めていた。
大僧正は代々世襲制であった。
最も、それはガヴァリエの一族の権力保持のためではない。
それこそガヴァリエは星の正当な統治者―――星から任命されたも同然だったからだ。
ガヴァリエ一族の星読み能力は、著しく秀でており、星を崇敬の対象としていたこの時代、星と最も意思を通わせることのできるガヴァリエ一族が、統治者を任
ずることも至極当然であった。
さらに、パルミド・ダラス・ガヴァリエには、一人娘のイファルナ・ラスラ・ガヴァリエがおり、彼女は正当な次期大僧正としての権利を持っていた。
そして、彼女の恋人、ガスト・ファミレスはガヴァリエ家ではないのにも関わらず、優れた星読みの能力を有しており、彼らを中心として、サンクトリプトは過
去最大の繁栄を誇っていた。
一方、星に対するいささか過剰ともいえる崇拝心と、ガヴァリエ一族に対する崇敬心の中で、はじき出される者もいた。
星に対する冒涜と、ガヴァリエ一族への反逆は最も愚かで許しがたい罪であった。
運よく死罪を免れても、一族はサンクトリプトから追放、彼らの子孫は永遠に“外”で、星の加護も大僧正の庇護も無く、暮らすという“刑罰”が当然のように
科された。
星の力は大僧正が統べており、大僧正の庇護の下(もと)にいないということは、星の加護からも見放された、ということを表していた。
追放された者たちはジェノバ(忌わしき者)と呼ばれ、彼らは独自で都の外に幾つかの集落(サークル)を作り、暮らさざるを得なかった。
当然、彼らは自分たちを追放した都に苦々しい思いを抱いており、その一方で都の者たちはジェノバを星の、汚点として忌み嫌っていた。
中でも、熱狂的にジェノバを憎む者たちは、反ジェノバを掲げてカンタラスという一団を密かに作り上げていた。
その存在はパルミドの知るところとは言え、その総本山がどこにあるのかさえ、把握できない隠れた組織だった。
カンタラスが優れた情報収集能力と資金を持っていることからして、センタラスの公職につく者がその中心を成していることは、ほぼ確定的だった。
その彼らの標的は、専らサークルに生まれた男児だった。
パルミドとガストが結託して星読みをし、ライフストリームの異常なまでのうねりが発覚した事件から三年のときを経て、解明した事実にそれは由来していた。
その時のライフストリームの強烈なエネルギーの全てが、一人の赤子に収束したという、その真実によって。
サークルで生まれた赤子は、その小さい体に、残酷な星からの贈り物をたくさん詰め込んで生まれのだ。
その事実は、カンタラスのみならず、パルミドやガストまで危惧させた。
星の強大な力、それを一身に受けた子供。
その子供がジェノバである、ということ。
それは当時の差別感にも依存していたかもしれない。
だが、人外の力を持った子供は、まぎれもない危険因子だった。
危険なものは排除しなければならない。
いつの時代も人はそう思うもの。特に、自分たちの命が危険にさらされる可能性を伴えば、更にそれは顕著になる。
人々は恐れ、互いに議論し、やがて公職の上員―――恐らく、カンタラスのメンバー―――までもがパルミドに直訴し始めた。
彼らと民の声を抑えられなかったパルミドは、自らサークルに訪問し、赤子の両親に交換条件を提示して、赤子の引渡しを求めた。
サンクトリプトに戻し、名誉を回復する代わりに、赤子を引き渡せと。
だがジェノバ(忌わしき者)の両親は誇りを持って答えた。
「私たちはジェノバです。罪人の子孫です。ですが、一人の人間であり、この子の親です。私たちはこの子を愛しています。渡すことはできません」
ジェノバ、それは都の者たちが、罪びとを卑下するためにつけた言葉だったのかもしれない。
そう、彼らに罪は無い。祖先が犯した罪が何代にもわたって影響を及ぼしているだけなのだ。
彼らはジェノバである前に、一人の人間だった。
誰かを愛し、共にいたいと願い、愛するものの死に涙する。
子供を心から愛する気持ちはサンクトリプトの人間と変わらないはずだ。
ましてや、そんな彼らがとって付けただけのサンクトリプト市民の名に目が眩んで、子供を引き渡す―――つまり殺させるようなことをするだろうか。
答えは否。
星の力を身に纏った赤子の両親は、心からその子を愛していた。
金髪と真っ青な瞳。可愛らしい顔立ちがあどけなく微笑むとき、その子をどんな危害からも守ってあげたいと、そう思ったのではないだろうか。
子の未来に思いを馳せ、その子が誰かと愛し合い、サークルの中であっても、幸せに暮らしていってくれることを願ったのではないだろうか。
結局話し合いは破綻し、パルミドは無収穫のままサンクトリプトに帰ることとなった。
その情報は瞬く間にカンタラスへと届き、子供を殺せなかったことに憤る一方、自らの手で子供を亡き者にする計画を練り始めた。
その怒りがあまりにも急峻だったため、計画はある意味でお粗末であるとさえ言えるほど、早く実行された。
「おかえりなさい」
イファルナは生まれたばかりのわが子をあやしていたが、父親が帰ってきたことに気づいて、顔を上げた。
「ああ、ただいま」
イファルナは首をかしげた。
ガストの様子がいつもと違う。
いつもだったら、真っ先に子供のところに飛んで、見ているほうが呆れるほど顔を綻ばせて、猫撫で声であやすのに、今日の彼はどこか顔色が悪く、思い悩んで
いるようだった。
「あなた、どこか具合でも悪いの?」
イファルナは心配になってガストに声をかけた。
「いや・・・その・・・」
ガストは口ごもる。
イファルナは増す増す心配になって、ガストに肩にそっと手を置いた。
暫くして、ガストは俯いて、イファルナが片手に抱えたわが子へと手を伸ばした。
そっと柔らかな栗毛を撫で、それから決心したように口を開く。
「子供を殺すのは、どんな理由でも正しくないと・・・今エアリスを見て、そう思いました。でも、私は・・・一瞬だけ、彼らの行動に仕方がないと、仕方がな
いと思ってしまったんです」
「え・・・?」
苦渋の表情を浮かべるガストは本当に苦しそうで、イファルナはそんな彼の気を宥めるかのように、背をゆっくりとさすった。
ガストはのど元をごくり、と鳴らして言葉を飲み込む。
だが迷いを断ち切るかのように首を横に振って、また言葉を紡ぎだした。
「今日、センタラスの上員数名と、サンクトリプト市民の数十名に、市民権剥奪の命が、倪下から発せられました」
「え・・・」
イファルナはうろたえて思わず子供を取り落としそうになった。
それを機敏に捉えたガストがすかさず、イファルナを支える。
父が?何で・・・?
頭の中に沸き起こる疑問に耐えかねて、イファルナは深くうめいた。
センタラスの上員が解任されるどころか、追放されるなんて、聞いたことが無かった。
一体何が起こったのだろう。
ガストは妻の視線を受けて続ける。
「・・・カンタラスが、サークルに攻撃をしかけて、あの子とその両親を殺そうとしました」
「・・・!!」
イファルナは自分の足元が暗くなる気がした。
カンタラスの名は聞いたことがあった。そのメンバーの中に、おそらくはセンタラスの上員がいることも。
だが、まさか―――まさか、こんな愚かしく恐ろしい手段に訴えるとは思っていなかった。
彼らの多くは博識であり、星を尊び、法を愛する人々であったはず。
その彼らが―――?
人を、ジェノバと言えど人を残忍にも殺そうとするなど!
だが、一拍置いて、イファルナに冷ややかとさえ言えるほど、客観的な思考が舞い戻ってきた。
彼らのジェノバをそれほどまでに憎んでいたのだ。
彼らは星を尊ぶ者たち。だからこそ、星に、ガヴァリエに背いた者たちを憎むのだ。
その彼らにとって星に危害を及ばせるかもしれない子供の存在はどれだけ、憎かっただろう。存在を抹消したかっただろう。
それはある意味で星を愛するが故の行為でありながら、星の最も基本的な基盤―――生の営みに反することであった。
彼らは、考えることは無かったのだろうか。
人を殺すことは何であれ、星の意思に反することと。
星は新たな命を作り、命を終えたものを迎え入れ、新たな生の形に備えさせる。
それは、星が全ての存在に生を強く望んでいることの何よりの証拠ではないのか。
それに反することは、彼らの理念に反さなかったのか。
「・・・両親は殺されましたが、肝心の子供は逃げました。どうやら・・・年の離れた兄弟が連れ出したようです」
殺された親はどれだけ無念だったことだろう。
愛する夫の子を産んだばかりのイファルナは、その悲しみと怒りを強く感じ取っていた。
自分が、この子―――エアリスが殺されようとしていることを知ったなら、どんな手段に訴えでも、それこそ命を懸けてでも守ろうとしただろう。
それが子を愛する親の当たり前の心情というもの。
自分自身が殺されようとするその最後の一瞬までも、子供の身を案じただろう。
悲しみに打ち震える反面、イファルナは深く安堵した。
子供は―――子供たちは無事逃げおおせたのだ。
ガストの言うとおりだ。
子供はどんな理由でも殺されるべきではない。
一瞬でも、自分自身の中で「仕方が無い」と思ってしまったガストの罪悪感も、よくわかる。
彼だって一人の子供の親なのに、そんな心無いことを思ってしまったのだ。
優しい彼だから人一倍傷つき、自分を責めているのだろう。
上員の裏切りと追放に、人一倍悲しんでいるのだろう。
今日はずっと傍にいようと、イファルナは思った。
サンクトリプト北西から西南西にかけて、その一体にゴルモア大森林と言う、天然の迷路を思わせる樹海が広がっていた。
そこを境界とし東側に“星の丘”があり、西側はサンクトリプト外の単なる荒地であった。
ゴルモア大森林は人の方向感覚を麻痺させることから悪名高く、サンクトリプトの親は、絶対に入ってはいけないと、口をすっぱくして子供に言い聞かせてい
た。
更に悪いことに、ゴルモア大森林はライフストリームの不可思議な影響を受けて、ライフストリーム自体が霧となって視界を悪くしていた。
星力の霧は、人々から星読みの力を奪い、もし無理に星読みをして術を使おうとすると、あえなく暴発して、術者の命を奪う。
また、星力の霧はそこに住む動物たちの体にも異変を与え、うっかり森林に入るものなら、モンスターが襲ってくるという始末だった。
ゴルモア大森林は人々の畏怖の念を沸き起こらせる一方、貴重な薬草が大量に群生していることでも有名だった。
それで、サンクトリプトの薬師は、ゴルモア大森林のほんの先っぽの方だけを開拓して道を作り、その周辺で薬草を採取するのが普通だった。
開拓された道より先は、ただ鬱蒼と木々が茂り、恐ろしげに怪鳥が悲鳴のような鳴声を上げるだけの、魔の森だった。
たとえ、逃げた例の子供がここにいるとしても、カンタラスでさえ尻込みしてしまうような森だった。
「クラウド、薪を拾ってきてくれ。昨日全部使ってしまったのを忘れていた」
「わかった」
昔、誰かが作った粗末な小屋から、まだ幼い少年が出てきた。
年のころは七つで、太陽のような金髪と海のような瞳が印象的な子供だった。
だがその表情は硬く、七つの子にしてはどこか張り詰めていて、痛々しささえ感じさせた。
身に付けているものも決して良いものではなかったが、栄養の状態は決して悪くないらしく、顔色は良かった。
少年―――クラウドは、三年前に両親を殺されてから、年の離れた兄と共に、ゴルモア森林の奥深くで生活してきた。
森林は危険であったがその分、人的危害からは安全だった。
もっとも、力の強いクラウドにとって、魔の霧も恐ろしいものではなかったが。
だが兄にとっては魔の霧は作用する。
ライフストリームの暴発する地で、ライフストリームを使用して生きるわけにはいかない。
二人は人工的に火を起こし、水を汲み、ひっそりと暮らしていた。
もちろん、彼らだけで生活するのは到底無理だった。
すでに成人した兄は周囲のサークルと常にコンタクトをとり、協力を得ていた。
異なるサークルと言えど、ジェノバ間の結託は強く、多少の危険を冒してでも類まれな力を持った子供を庇護する価値は十分にあった。
クラウドはどこか影のある少年だった。
自分を大切にしてくれる兄がいる―――だけど埋まらない『何か』。
ジクソーパズルの最後の一片がはまらないように、心に何か隙間があった。
そこを埋めるために、怒りや憎しみを募らせても、やはり空虚という名の大穴へと吸い込まれ、いつまで経っても穴は塞がらない。
ただ呆然と虚しい思いを抱え、日々つまらない生活を営む少年は、瞳の奥にゆらゆらと狂気の火種を宿していた。
『何か一つ埋まらないもの』。それは殺された両親の存在だったのかもしれない。
類まれな力を得て生まれたというだけで、残忍な迫害をしてくる者達への、底なしの憎しみから来る、心の不平安だったのかもしれない。
なんにせよ、クラウドは一度も幸せだと思ったことが無かったし、兄以外を信用したことも無かった。
その信用でさえ、いつ崩れるかもわからない疑念に満ちたもので、彼の瞳はいつだって疑い深く、ひどく冷めていた。
サークルのジェノバたちでさえ、クラウドは疑わしく思っていた。
今は庇護してくれているかもしれない。だけどそれは自分の利用価値を考慮に入れた打算的なものにすぎず、それに隠れてほんの少しの同情が顔を出す程度だ。
いわく、カンタラスの『思い通り』にクラウドを殺させるのは、『癪に触る』とか。
いわく、クラウドが成人すればサンクトリプトへの大きな牽制になるかもしれないとか。
例えそうでなかったとしても、人の心などいつ変わるかわかったものではない。
なにせ、あのカンタラスのメンバーでさえ、サンクトリプト市民からは崇敬の対象になる奴らがいるのだ。
カンタラスメンバーは残忍で、そして『人』だ。
サンクトリプトの市民も『人だ』。
そして―――サークルの奴らも『人』で、兄でさえ『人』なのだ。
―――誰を信用しろという?
同じ種族でありながら、蔑み殺し合い、迫害する者たちのだれを?
憎みあい、簡単に手のひらを返すもの達の何を?
ちっさな手が、チョコボ車の荷台から降りた、三段ほどの梯子の手すりにすがる。
「よいしょ・・・よいしょ・・・」
暫くして、荷台の淵から大きな緑の瞳がのぞく。
その瞳はきょろきょろと荷台に詰まれた荷物に配られ、やがて一点に収束した。
「あったぁ!」
たくさん在るうちの一つのラックの角に、リボンのついた麦わら帽子が引っかかっている。
少女のお気に入りの帽子はつい先ほど風に飛ばされて、このチョコボ車の荷台に乗ってしまった。
淡白色のわらで編まれた帽子は、少女のピンクの族服によく似合っていた。
「えへへ、おかえり」
その麦わら帽子を、栗色の巻き毛の上に乗せ、少女はくりくりした目を元来たほうへと走らせる。
「あれ・・・?」
どれだけ良く見ても、梯子が見えない。
さっきまで確かにあったのに。
下を覗き込むと、少女にとって地面までの距離は驚くほどあった。
「降りられないや・・・」
生来ののんびりした性格のせいか、はたまた彼女が幼児だからか、少女は格別に怖いとは思わなかった。
すると―――
「ひゃあ」
足場ががたんと揺れ、チョコボ車が動き出した。
バランスを崩して、ラックの衝撃吸収材として積まれたわらへとダイブする。
「ううー・・・」
小さく唸って、わらまみれの頭を上げると、景色がどんどん後ろへ流れていくのが見えた。
チョコボ車は、一定のリズムで上下に揺れながら、センタラスの十字回路を、西へと走っていく。
「わあーーー」
少女は目をキラキラさせて辺りの様子を伺った。
すごい、景色がどんどん変わっていく!
少女はまだ三つで、センタラスの自宅から出たことが無かった。
家はとても広く、庭も広大で、少女は一度も外に行こうとは思わなかったし、そもそも外という概念を持ち合わせてはいなかった。
だから、飛ばされた麦わら帽子を取りに初めて出た『外』は、彼女にとって素敵な宝物に見えた。
たくさんの人。
にぎやかな喧騒。
そのどれもが新鮮で、何もかもが輝いているように思えた。
そして、いま乗っているチョコボ車。
こんなに速く動ける乗り物があるなんて知らなかった。
家がどんどん離れて、ついには見えなくなる。
その全てが新しい発見だった。
家の外はすごく広くて、どこまでも続いている。
家の外はたくさんの宝物で満ちている。
チョコボ車が一歩進むごとに、少女の胸は新たな発見とそれ以上の好奇心で満たされた。
この先には何があるんだろう?
チョコボ車は更に進み、“星の丘”に入り、更に西へと行く。
少女は過ぎ去る景色の一つも逃さまいとして、せわしく辺りをきょろきょろ見回していた。
やがて、舗装された道が途絶え、走路は一気に悪くなる。
それはサンクトリプトから出たと言う証拠であったが、少女は何も知らないまま、目の前に広がるうっそうとした森に心を奪われていた。
その森には更に素敵なものが待っている気がした。
「少し遅れているか・・・?」
セフィロスは時計と家のドアを交互に見て、少しの不安を感じた。
彼はカンタラスに探りを入れるために、情報屋をサンクトリプトに潜らせていた。
その契約人が、待ち合わせの時間に遅れている。
それは文字通り以上の深い意味をもつ可能性があった。
ジェノバがサンクトリプトに侵入するためには、いくつものハードルをクリアする必要がある。たとえうまくいっても、相手は反ジェノバ組織カンタラス。
隠れた組織として暗躍するその中に潜入することがいかに困難かは、想像に難くない。
もし潜入がカンタラスの知るところとなれば、それはすぐに自分たちの命を脅かすものとなる。
それでも、潜入を引き受けてくれたのは、おそらくはクラウドが特別な子供だからだろう。
サンクトリプトの不条理な法と束縛から彼らを解放する、救いの子と・・・?
サークルで一人歩きするクラウドの噂が頭に浮かび、セフィロスはいたたまれない気持ちで自分の幼い弟を見やった。
まだ七つのクラウド。
親に甘えたい盛りなのだろうに、サンクトリプトからは恐れられ、カンタラスからは憎まれ、両親を殺された一方、サークルからは勝手な期待を押し付けられ
る。
いつも澱んでいる瞳はとても七歳のそれではなかった。
セフィロスとて、あまり感情表現の多感な子供ではなかったと思う。
だが、確かに両親がいて、少なくともクラウドよりは幸せだった。
成人した今でも、決して多感な人間ではない。
だが、両親を殺されたときのあの憎しみや悲しみは、骨の髄まで染み付いている。
だが、復讐よりも先にしなければならないことがあった。
クラウドを守る、ということ。
恐らくそれは、亡き両親の一番の願いだっただろう。
それにひとりで生活させるにはまだクラウドは幼すぎる。
セフィロス自身よくわからなかったが、このたった一人の兄弟を守ることが―――肉体的にも精神的にも―――それが、最も大切なことに感じられた。
その時、哀れを感じるセフィロスの前で、クラウドは急に食事の席を立った。
「どうしたクラウド?」
「・・・来る」
幼いクラウドは、鋭い瞳で外を見つめ、無造作にドアを開けて行ってしまった。
セフィロスも後を追うと、どこか遠くへ行ってしまうように思えたクラウドは、出たすぐその場所に佇んでいた。
その視線は遥か右方に向けられ、森林の奥の奥を見据えていた。
暫くして、チョコボが地面を蹴る音が聞こえ始めた。
セフィロスは、ああ、と思う。
―――クラウドはその常人を遥かに超えた星読みの能力で、待ち人が来ることを機敏に捉えていたのだ。
だが実のところ、クラウドはそんな『どうでもいいこと』を察知していたのではなかった。
兄の待ち人よりも力の強い存在。
クラウドはその存在がゴルモア大森林に入ってくる前から、ライフストリームの『形』として、気配を捉えていた。
他の者にとってはさまざまな生命エネルギーの混流にしか捉えられないライフストリーム。
だがクラウドにとってライフストリームは、いつだって確かな造形を持っている、『物質』であり『映像』のようなものだった。
他者が『見る』ライフストリームは、モザイクがかかったように不鮮明で、そこから何も情報を得ることはできない。
だがライフストリームはクラウドに、じかに目で見るよりも遥かに鮮明なイメージと情報を与えてくれる。
むしろ、目をつぶってライフストリームと精神を同調させていたほうが、いいぐらいだった。
そのクラウドの視線は、自分の目の前で止まったチョコボ車の荷台に向けられていた。
―――あそこに、力の強い者がいる。
チョコボ車から騎者が降り、出迎えた兄と一言二言言葉をかわして、家の中へと入っていく。
いぶかしげな兄の視線を流し、ドアが閉まったことを確認してから、クラウドはそっと荷台の方へ回った。
荷台に目をむけると、たくさん詰まれたラックの影から、ピンクの裾が覗いていた。
クラウドはライフストリームに流れる、この存在の生命の『形』から、この荷台にいる相手が自分よりも幼く危害の少ないものであるということを認識した。
それでためらいなく荷台へ登り、ラックの後ろへ歩を進めた。
視界に飛び込んできたのは、肩までのくるくるした栗毛に、ピンクの族服を纏った少女だった。
自分の力に少しだけ近しい存在をじっと見つめていると、少女のまぶたがゆっくりと開いた。
少女は小さい体を起こして、あたりをきょろきょろ見回してから、やっとクラウドの存在に気づいた。
「だーれぇ?」
愛らしい声が幼い無遠慮さで発せられる。
クラウドは、暫く無感動に少女を見つめていたが、やがて口を開いた。
「クラウド」
少女は目をくりくりさせて、クラウドの青い瞳を覗き込んだ。
それからにっこり微笑んで、お気に入りの帽子を目深にかぶった。
「・・・名前は?」
ぶっきらぼうに聞いたにもかかわらず、少女ははっとするほど明るい声で答えた。
「エアリスだよ。エアリス・ヴィア・ガヴァリエっていうの」
クラウドの視線はすばやく少女が着ている族服に送られた。
ピンクの下地の上に羽織った、エプロンのようにも見える前掛け。
それに刺繍された模様を見て、クラウドの胸に形容しがたいものが浮かんだ。
少女の息の根を止めたがる、右腕をクラウドはぐっと抑えた。
暫く耐えていると殺意は薄れ、かわって不気味なほど落ち着いた暗い欲望が芽生えた。
―――この何もわからず笑っている奴を、苦しめてやりたい。
人を殺めることを禁止しておきながら、殺人集団のカンタラスを手遅れになるまで野放しにしておいた―――ガヴァリエ。
虫けら程度の力で、他者より優れていると『勘違い』し、平和なサンクトリプトという偽善を演じ、自らを高めるガヴァリエ。
自分たち家族は―――自分は、ガヴァリエに苦しめられてきたようなものだ。
『幸せなだけ』のこいつで―――ガヴァリエに、自分の苦しみを味あわせてやりたい。
事実、胸にぽっかり開いた穴は、クラウドをずっと苦しめてきた。
芽生えた暗い欲望は心を覆い、次の瞬間クラウドは行動に出る。
「エアリス、なんでこんなところに来たんだ?」
自分でも不気味に思うほど優しく、まるで妹に接する兄のような柔らかさでクラウドは話しかけた。
エアリスはふにふにの手をぽっちゃりした頬にあてて、暫く考え込んだ。
「んと・・・お帽子がのっちゃって、それで乗って・・・」
「そうか、腹が減っていないか?」
エアリスが何を言いたいのかはわからかったが、そんなものは大した問題ではなかった。
クラウドは適当に相槌をうち、それからエアリスのモミジのような手を取った。
獲物に襲い掛かる蛇のような慎重さで、クラウドはエアリスに近づく。
「うん、お腹すいたっ」
「じゃあ行こう」
クラウドは初めて誰かの前で笑い、エアリスの手を引いて更に森の奥深くに入っていった。
森の泉近くに生える、ギザールフルーツは、ちょうど今の時期が旬だった。
木の幹から直接つたをだして、それにぶら下がるように生ったギザールフルーツは、まるで金の雨のようだった。
旬の果実は大陸で手に入る、もっとも美味とされるうちの食材の一つに入るようだが、甘ったるくてクラウドは嫌いだった。
しかし栄養価が高いので、しぶしぶ食べることもあったのだが。
「わあぁ・・・!」
エアリスはギザールフルーツの雨に、感嘆の声を上げた。
こんな綺麗なもの、見たことが無い!
まるまるとしていて、黄金色にきらきら光っている!
「クラウド、ちょうだい」
エアリスは優しい色の瞳を細めてクラウドを見上げ、彼のズボンを掴んでおねだりをした。
一番低いところになっている実も、ちびのエアリスには手を伸ばしても届かない。
クラウドは自分でも呆れるほどの寛容さを見せて、ナイフで果実のつたを切った。
皮にナイフをはしらせ、食べやすいように実を八つにきりひろげてやった。
「いただきまぁす」
行儀よく手を合わせ、それからエアリスは果汁が滴る切り身を口元へと持っていった。
小石のように小さな歯では弾力のある実を噛み切れず、黄色い果汁がぼたぼたとこぼれて襟元をぬらす。
「ああぁー・・・」
―――と声を上げても、さほど気にしてはいないらしく、エアリスは一生懸命甘い果肉をほおばった。
「おいしい」
無邪気な瞳は先ほどからずっとキラキラ輝いている。
目に入るもの全てが慕わしく、まるで不幸など知らないかのように。
その少女の前途は一点の曇りなく、晴れ渡っているのだろうか。
幸せしか手の内にない、と言われているように感じて、クラウドは人知れず奥歯をかみ締めた。
だが自分の表情が恨みがましく強張っていたのに気づいて、クラウドは意図して力を抜いた。
『目的』があると、ここまで我慢できるのだ、と頭の片隅で人事のように思う。
同時に、晴れ渡る少女の未来を暗雲で満たしてやりという思いが、ますます胸のうちに降り積もる。
―――このまま何事も無くガヴァリエの後継者に?・・・そんなことはさせない。
少年の小さな復讐心が、やがて星そのものを揺るがすことになるとは、クラウド自身さえ知らなかった。
続く